鹿目の自宅。 鹿目の家系は江戸時代初期まで遡れる武家の出らしい。 元々は勉強が苦手で志望校をことごとく落ち、仕方なく米国の大学に留学した。そこで、超大国のありようをまざまざと見せつけられた鹿目は日本もそうあるべきと考える様になった。 親の地盤を引き継いで政治家になり、党内で様々な役職を経験した。現在は内閣官房長官になっている。 もちろん、党内ににらみを利かせる為に、自分の派閥は盤石な体制を敷いていた。 そんな政界の大物らしく立派な洋館に住んでいる。しかし、家族がいない鹿目はいつも一人だった。 朝、秘書が迎えに来るまでは日中のお手伝いさん以外は人が居なくなる。 鹿目自身は寂しいとは感じていない。むしろ人付き合いに煩わされない分助かっているとさえ思っていた。 そんな鹿目が携帯電話で誰かと話している。『……彼らは約束を守れと言っている』 相手はかなり立腹しているようだ。「守っているじゃないか」 そんな怒りなど気に留めてないかのように鹿目は話していた。 暖炉を模した電熱器からの照り返しが鹿目の顔を仄かに赤くしている。 広大な屋敷にも関わらず、夜になると屋敷には鹿目一人きりだ。鹿目の声だけが部屋に響いていた。『粗悪品では駄目だと言っているんだよ…… 実際にあれは成分分析でも違う物だと分かるぞ?』 相手は取引商品の苦情を言っているようだった。「いいや、中身に相違は無いよ。 連中の成分分析が間違っているんだろう」 鹿目は飄々とした様子で答えていた。粗悪品だろうがなんだろうが内容は同じはずだ。『北の連中は何人も代金分を払っているのに、掴まされたのは粗悪品だと怒っているんだよ』 北の連中とは北安共和国の事だ。 北安共和国は非常に貧しい。それは国際社会に馴染もうとしないので当然ではある。だが、他国と取引しようとする時に外貨が足りないと言う問題に直面してしまう。 今回はかなり高額なのでドルも円も無い彼らは、自国の人間の臓器を代金支払いに充てて来たのだ。 日本は臓器移植を希望する人は多いが、提供者は絶望的に少ないのが現状だ。そこに付け込んだ闇のビジネスが生まれるのも道理だ。『約束を守らない見せしめとして、爆弾を爆発させたと言っているんだ』 先の首相暗殺未遂を言っているらしい。本人は親切のつもりなのだろう。だが、鹿目は知っていたのか動じる
「臓器を移植してやる代わりに帰依して言う事を聴けと、信者を増やしていったじゃないか」 鹿目は大関の動向を部下に見張らせているらしい。元々はそれなりに勢力を誇っていたが、最近は家族ぐるみで信者の入信が激増しているのだそうだ。『その見返りは十二分に答えているだろう?』 もちろん、非公式にだが自分の支持者に移植を希望する者が居る時には便宜を図ったりもした。「それに今回の事は君が部品では無く、生体を持って来たのが発端だと僕は考えているよ……」 部品とは移植用臓器の事だ。そして生体とは生きている人間の事だ。『生きの良い生体を望んだのは自分だろ? だから、そのまま密入国させてたのさ』 宗教を隠れ蓑して密入国までやっている。「冷凍物でも良かったんだがね」 一般に移植用の臓器は取り出してから数時間の内に使われる物だ。そうしないと移植対象に定着しなくなってしまうからだ。『苦労して持ち込んだ生体を逃がしたのは、お宅の部下だろ?』 どこの組織にも良心に目覚める者がいるものだ。「まあ生体を燃やし損ねたのは失態だったがね……」 鹿目はようやく自分の落ち度を認めたようだ。『一家全員を皆殺しにしておいてそれは無いだろう……』 大関が笑いながら言っていた。「ちゃんと事故として処理させたよ……」 鹿目は薄笑いを浮かべていた。『おまけに陰謀の匂いを嗅ぎ付けたライターも殺しているじゃないか……』 金が動く処には群がるハイエナが寄って来るものだ。「あのライターは金を掴ませて黙らせる予定だったのさ」 鹿目が笑いながら話す、今までもこうして来たからだ。金になびかない者などいないし、そういう奴は信用できないのも知っている。「酔っぱらって死んだのはこちらの落ち度じゃないね」 これは本当だった。きっと生活がだらしない奴だったに違いない。『……』 大関は黙ってしまった。返事が無いのが了解の印と受け取ったのか、鹿目は電話を切ってしまった。「ふむ……」 鹿目は静かにため息をついた。このところ不手際が目立ち始めている。仕切り直しの必要性を感じ始めているのだ。(そろそろ大関たちを排除するか……) 使えなくなった駒は捨てる。これが鹿目の生き方だ。親しい友人など必要とはしていない。 同じ時刻。鹿目邸付近の民家の屋根にクーカが居た。屋根の上で星を見上げるかのように寝転が
中型スーパー大光の店内。 今後の対策を練ろうと先島のマンションに行ったのだが留守だった。 実は、先島のコーヒー目当て行ったのだが、自分で炒れるのは味気ないので止めにしたのだ。(それにしても……) クーカが不思議そうな顔で小首を傾げている。(どうしてベランダ側の窓に、スリッパが揃えられていたのかしら……) 猫柄の可愛らしいスリッパだった。先島の奇行には分からない物が有るとクーカは考えた。 もっとも、先島からすれば一向に玄関を覚えないクーカに、スリッパを履かせたかっただけなのだ。(ああ、普通の人は仕事している時間か……) 普通とは違う生活をしているクーカは曜日の観念がすっかり抜けていた。 そこで、先島が帰宅するタイミングを狙って訪問しようかと、彼の『会社』の近くに来たのだ。 このスーパーには片隅にコーヒーコーナーがあるのだ。クーカはそこを利用していた。 店内は夕飯の支度時間には、まだ間があるのか人影は疎らだ。「やあ、クーカちゃんだよね?」 見知らぬ男がクーカに声を掛けて来た。自分の席の前に座ると、前から二人後ろからも三人やって来る気配がしていた。 見た事も無い連中だった。全員が何故かニヤニヤしている。相手を小馬鹿にする時の笑い方だ。(ちっ……) 自分の名前を知っているという事は面倒事が起きるに違いない。先島の勤務先の近所で立ち回りをするのは正直気が引けた。 男四人に取り囲まれてしまったクーカは離脱するタイミングを考えていた。「お兄さんたちさあ、或る人に頼まれて迎えに来たんだよ……」 ヨレヨレのスーツの中身は派手なシャツ。本人は流行りのつもりのようだが、どう足掻いてもチンピラにしか見えなかった。「……」 クーカはそれを無視して席を立った。「まあまあ、お兄さんの話を聞いてよ…… ね?」 先頭に居た男二人がクーカの前に立ちはだかった。そして、腰に差し込んである拳銃をチラ見せしてきた。自分たちは武装してるんだぞ言いたいのは分かった。クーカの事をある程度は知っているらしい。(……トカレフ ……じゃなくて、レッドスター ……装弾数は八発……) 横目でチラリと見たクーカは瞬時に相手の武器を見破った。 レッドスターとは中国がコピー生産したトカレフ拳銃だ。性能は……まあ、弾は出る。(撃鉄も起きてないという事は装弾されていない…
その隙にクーカは小型の玉ねぎをビニール袋に入れて足で踏み潰した。 潰した玉ねぎを入れたビニール袋を両手に持って立ち上がるクーカ。 まず、左側の男目掛けて投げつけた。簡易な薄い袋は直ぐに破け中身は男の顔にかかった。「うがああああっ!」 ぶつけられた男は両手で目を抑えていた。 玉ネギ絞り汁の主成分は硫化アリルで、催涙ガスの元になるぐらいに刺激が強い。これは目潰し代わりになるのだ。 クーカは次に右側の男に袋ごと殴りつける様に叩きつけた。破れた袋から飛び散った玉ネギ汁が男の目を刺激する。クーカはそのまま身体を回転させ、左腕の肘で左側の男の顎を正確に打ち抜いた。「うがっ!」 目が効かない所で、いきなり脳を揺さぶられた男はそのまま膝をついて突っ伏した。気絶したのだ。 クーカは身体の回転を止め、逆に回転して右側奥の男の股間を蹴りぬいた。もちろん渾身の力を込めてだ。「はぅっ!」 男は悲鳴を上げることが出来ない位に悶絶してしまった。「この野郎!」 そう叫びながら後ろからナイフを構えて襲ってきた者もいる。 クーカは手短な所に有った大根でナイフを受け止めた。直ぐに大根を手を放すと刺さったとナイフと共に床に落ちて行く。 アンバランスな荷重のかかり方に相手の手首が追い付けないのだ。 ナイフを落とした男の喉に手刀をお見舞いした。息が出来ない男はゼヒゼヒ言いながら床を転げまわっている。「てめえっ!」 もう一人のナイフはキャベツで受け止める。それを手首の反対方向にねじると相手はナイフを手放してしまった。 クーカは傍に有った長めの牛蒡を鞭の代わりに使った。相手が銃を取り出そうとしたので、手の甲を叩いてから顔を右に左にと殴りまくったのだ。 三撃目で牛蒡が折れてしまったので、足もとに落ちていたカボチャでぶん殴った。これは硬いので効いたようだ。殴られた男がよろけている。 最後は長ネギを構えて男たちを牽制していた。男たちはあまりの展開に唖然としてしまった。「あ? え? えええーーーっ!?」 男たちは狼狽してしまった。相手のあまりの強さにだ。 相手は見た目は普通の愛らしい少女だ。それが、あろうことか野菜で自分たちを撃退するなどとは夢にも思わなかったらしい。「こらっ! 貴様ら何をしているかあーーー!!」 そこにスーパーの警備員たちが駆け付けてくれた。女の子
中堅スーパーの警備室。 女子高生が暴漢に襲われたとの通報があったため何人かの警察官がやって来た。しかし、暴漢たちは撃退されて逃げ出している為、警官たちは肩透かしを食らった形だった。 そこで犯人の特徴を捉えようと防犯カメラを見る事にしたのだ。 スーパーの防犯カメラの映像を見た警官たちは絶句した。「……」「……」「……」「何者だよ、この女子高生……」 それは、まるでアクション映画の撮影でもしてるかのようだった。闇雲に逃げているように装って、狭い通路に誘い込み一対一の格闘に持って行っている。 襲撃犯は人数がいるので容易く型が付くと驕っていたのであろう。瞬く間にかずを減らしていった。 そう見えるくらいにクーカは襲撃犯を易々と撃退して行っているのだ。しかも、動きには一切の無駄が無かった。まるで格闘家対素人の試合を見ているようだ。話にならないのは一目瞭然だった。 だが、これでも時間が掛かっている方だった。今までのクーカなら躊躇する事無く襲撃犯たちをあの世に送っている。 今回は武器が無いので仕方なく格闘したのだ。別に格闘戦が苦手な訳では無い。クーカが武器を使うのにはそれなりの訳があった。 クーカは体格が小柄なので体力が無い方だ。体力を猛烈に消耗する格闘戦は持久力に問題があったのだ。後、一分程度に襲撃犯が粘ったら、へたばってしまうのはクーカの方だった。それくらい危うい状態だったのは誰も分からなかった。 男たちは何故か拳銃を出さなかった。目の前で驚異的な強さを見せるクーカに恐れをなして忘れていたのかもしれない。「おぉぉぅぅぅ……」 クーカが襲撃者の一人の股間を蹴り上げた瞬間。室内にいた男性警官たちが呻き声を漏らした。何かに共感したのだ。 男共が何に畏怖したのか、理解できない女性警官はキョトンとしている。「すげぇ、強いな……」「本当に女子高生かよ……」「……俺たちでも敵わないんじゃないか?」 防犯カメラの映像を見ていた全員が口々に絶賛していた。 ナイフとは言え武装した男たちを、野菜で撃退する女子高生に驚愕していたのだった。「取り敢えずは被害届を出してもらっておこうか……」 一番年配の警官がそう言った。 一方、スーパーの警備室では事情聴取が行われている。灰色の壁だけの味気ない部屋だった。「襲われた襲撃犯たちに心当たりはありますか?」
「お名前と学校名を教えて貰えるかな?」「……」 クーカは黙ってしまった。クーカは学校に行ったことが無いし、名前を名乗る訳にもいかないのだ。まず、日本に住所など持って無いので、そこから違う問題に発展してしまう。黙秘する以外に方法が無かった。 それより目下の問題はあの女性警察官からどうやって逃げるかだ。「学校で格闘系の部活に入っているとか……」「無いです……」 学校では無く米軍の特殊部隊仕込みなのだが、それも言えないというか信じて貰えないだろう。 クーカは襲われた方なのに、何だか取り調べを受けるのが気してきた。憮然とし始めている。「あの…… 何か特殊な職業に付いた経験があるとか無いですか?」「無いです……」 まさか世界中で指名手配されている殺し屋ですとは言えない。 他に何も言えないので壊れたテープレコーダーのように繰り返すクーカ。そろそろ飽きて来た。 敵に捕まった時に備えての訓練も受けた事が有る。 その時には自分の名前と所属を繰り返して答えろと言われた。尋問官の目を見ずに机の端に視線を向けるのがコツだと教わった。 目を見てはいけないのは反抗的だと取られて尋問が厳しくなるからだ。暖簾に腕押し状態だと相手が折れてしまうのだそうだ。 しかし、これは敵に捕まった状態では無いので、どうやって脱出すれば良いのかが分からかなった。まさか、殲滅する訳にもいくまい、クーカは日常生活に不慣れなのだ。「無いですか…… そうですか……」 警備員はクーカが頑なに協力しないのでため息をついてしまった。「じゃあ、警察の方に被害届を出して貰えませんか?」「いいえ、大した被害は受けていないので出しません……」 結構な暴れ具合だったが被害は無いと言う。確かにクーカが殴られた場面は無い。むしろ襲撃犯の方が肉体的にも精神的にもダメージを受けているはずだ。 第一被害届を出すには住所が居る。これも出せない理由だ。 検索されると密入国している事まで判明してしまう。そろそろ取り調べを止めて欲しかった。「そうですか…… 仕方ありませんね」 警備員は書類に何かを記入してバインダーを閉じた。彼も自分の職務以外には関心が無いようだった。 どうやら、取り調べが終りそうな雰囲気にクーカは内心ほくそ笑んだ。「では、余り過剰な攻撃は止めて下さいね。 過剰防衛になると危険が危ないで
保安室。 外線が着信し電話が鳴った。「はい、青山三丁目警備保障です……」 電話に出たのは沖川だ。青山三丁目警備保障とは対外的に名乗っている『会社』の名前だ。『謀略大好き公安です』と名乗る訳にはいかないからだ。だが、沖川の顔つきが直ぐに曇り出した。「先島ですか? はい、ちょっとお待ちください……」 しかし、沖川は電話の応対をしている内に首を傾げ始めた。「大光スーパーの警備室からよ?」 保安室の近くに有るスーパーだ。良く昼の弁当を調達するのに全員が使っていた。 焼肉弁当の大盛が先島のお気に入りだ。「はい、替わりました。 先島です…… えっ? 娘がそちらにお邪魔してる?」 先島が怪訝な表情になった。身に覚えが無いからだ。首も捻ってしまっている。「?」 保安室にいた室員全員が先島の会話内容にキョトンとしている。先島が家族を失ってからずっと独身なのは知っているからだ。「ひょっとして隠し子?」 藤井と沖川がきゃあきゃあ言い合っていた。他の人もニヤニヤ笑いが止まらない。真面目を絵に描いたような先島が慌てているからだ。「はあ…… クーカですか…… それは御迷惑をおかけしました。 すぐ迎えに上がります」 先島が電話にそう答えると、室長が口からお茶を拭いてしまった。 先島がクーカを連れて保安室にやって来た。スーパーまで迎えに行ったらしい。 保安室の扉を開けると室長を始めとする全員が整列して待っていた。 室員たちは緊張の面持ちで出迎えている。 何しろ『世界最凶の殺し屋』と呼ばれる『死神の娘』がやって来るのだ。緊張するなと言う方が無理だ。 クーカは逃げ出す事も無く大人しく先島に付いて来た。「えー…… みんなが会いたがっていたクーカさんです」 クーカがぴょこんと頭を下げる。それに釣られて全員が頭を下げた。 そして珍しい生き物を見るかのようにジロジロと見ていた。見た目は普通の少女だ。先島の娘と言われても違和感は無い。 クーカは恥ずかしいのか先島の影に隠れようとした。「大光スーパーで暴漢に襲われて、相手を大根・キャベツ・ゴボウで撃退したようです」 室員たちにクーカを紹介しながら、スーパーでの出来事を説明した。「ええと…… 災難でしたね……」 他に言いようが無かった。全員が呆れたように聞いていたのだ。(襲撃相手が生きていると言うのはビ
先島の自宅。 先島が自宅に帰るとベランダの戸が開いていた。「……」 先島が部屋の中を見回すと、隅にクーカが居た。膝を抱えて座って居る。「ごめんなさい……」 クーカも言い過ぎたと分かっているのだろう。素直に謝って来た。足元を見るとスリッパをちゃんと履いていた。「宮田も済まなかったと言っていた。 許してやってくれ、世の中にはああいうタイプも必要なんだ」 先島は十人居たら十通りの答えが有っても良いと考える方だ。むしろ全員が同じ事を考えていたら、そちらの方が気持ち悪いと感じてしまうたちだ。「もう気にするな…… さて、今夜は何にしようか?」 先島は気持ちを切り替えようと夜のご飯の話を始めた。 誰のせいでも無いのに議論しても無駄だからだ。「お腹空いたーーっ」 クーカが先島の考えを見たかのように返事をした。「ん? ちょっと待ってろ……」 先島は空に近い冷蔵庫から野菜とコロッケを取り出して来た。作るのはコロッケ卵とじだ。「凄いーーっ」 クーカは目を丸くしていた。何も無いに等しい冷蔵庫の中身で先島は料理を作り出したのだ。「ん? どうした?」 出来上がった野菜炒めを皿に盛り付けていた。「ひょっとして料理は苦手なのか?」 そう話しながらフライパンを水洗いをする。料理を作りながら調理器具を片付けるのは常識だ。 しかし、クーカの生い立ちを知っている先島は質問を間違えたと思ってしまった。「したことがありまっせぇーーん」 クーカは人が料理する所まじまじと見たのは初めてだった。クーカのテンションが妙に上がっていた。「しかも、美味しいし!」 先島がよそ見をした隙に野菜を一欠けら口に運んでいた。先島はニコニコしながらコロッケの卵とじを作り始めた。 先島は魔法使いなのかも知れないとクーカは思ったのだった。 料理を食べ終えた二人はデザートのケーキを食べ始める。ひょっとしたらクーカが来るかもしれないと帰りがけに買って来たのだ。「甘いものを食べないと身体が燃料切れ起こしちゃうの……」 クーカが美味しそうに食後のケーキをぱくついていた。確かにクーカの身体能力は群を抜いて凄かった。 代謝機能がずば抜けているので、カロリー消費がもの凄いのだ。だから、カロリーバーなどを常に携帯している。「それで何時も甘い匂いがするのか……」 うっすらと甘い匂いを残し
「あの娘はこれから友達を沢山作って、恋も一杯して、そしていつか結婚して子供たちに囲まれて静かに暮らす」 クーカは目を細めて『妹』の姿を見ていた。「そんな平凡な人生を送っていくの……」 打球を撃ち返せずに悔しがる妹。その妹を励ます友人たち。微笑ましい光景だ。「どれも…… お前には手の届かないものだな」 そんな様子を見ながら先島が言った。 「人は平凡なんかつまらないと言うけど、私から見れば眩しいくらいに羨ましいわ……」 実の姉が生存している事を知らない『妹』は、周りに居る友人たちと屈託なく笑っている。「彼女は私とは違う人生を送っていって欲しい。 それが私の残された願い…… 誰にも邪魔はさせないわ」 きっと何事も無ければ、妹の隣で共に光り輝いていたであろう自分の青春に思いを馳せていた。「……お前はそれで良いのか?」 先島が尋ねた。「物心付いてから今までに覚えたのは、人の殺し方と獲物を追い詰めるコツだけよ……」 クーカは口元に薄い笑いを浮かべがら言った。自分の人生にあるのは硝煙と血の匂いだけだ。今、居なくなっても誰も気に留めないし振り返られもしない。「……今更、どうにもならないわ」 きっと、どこか遠い国の知らない街の路地裏で、ひっそりと始末されるのが運命なのだと悟っている。風に吹かれると消えてしまう煙のようなものだ。「俺たちなら違う人生を送れるように手配できる」 俺たちとは先島が所属する組織の事だ。「表の世界に戻ってこないか? このまま暗闇の中をいくら走っても何も見えないままだぞ……」 先島は彼女をスカウトしようとしていた。殺し屋になるしかなかった不遇の人生を思いやっている訳ではない。 何とかして絶望の中で足掻いている少女を救いたかったの
小高い丘の上。 平日の午後。住宅街に設置されている児童公園には散策する人すらいない。 その児童公園は小高くなっている丘の上にあった。そして、公園の眼下にあるテニスコートが一望できていた。 テニスコートには部活なのだろうか、付近の中学校の生徒たちがラケットを振るっていた。 そんな学生たちをクーカはベンチに座ってぼんやりと眺めていた。「ここに居たのか…… 探したよ……」 クーカがチョコンと座るベンチの隣に先島が腰を掛けて来た。「……」 クーカは先島がやって来た事に関心が無いようだ。気が付いて無いかのように無言でコートを眺めている。 眼下に見えるテニスコートからは、テニスボールを撃ち返す音が響いて来た。それに交じって仲間を応援する声もする。 それは平和な日本を満喫するどこにでもある風景だ。「俺にもあんな時代があったな……」 生徒たちの上げる嬌声を聞きながら先島がポツリと言う感じで言った。「周りに居る大人は全部自分の味方だと信じていたもんさ」 そんな学生たちを見ながら、先島がおもむろに口を開いた。「無心に部活に打ち込んで、家に帰ってからは勉強そっちのけでゲームばかりやっていたっけ……」 もちろん人間関係の煩わしさもあったが、大人となって足枷だらけになった今とは雲泥の差だ。「……」 クーカは先島の話に関心が無いのか無言のままだった。 二人が見つめるコートの中に、一人の女子生徒が歩み出て来た。どうやら打球を受ける練習を行うようだ。 それを見ていた先島がおもむろに口を開いた。「彼女の名前は親谷野々花(おやたにののは)。年齢は14歳の中学生……」「成績は中くらいで友人は多数。 勉強は大嫌いだがスポーツは大好き」「まあ、どこにでも居る平均的な
(急がないとクーカの足取りが消えてしまう……) あの銃撃戦の跡にクーカの死体は無かったと聞く。もっとも素人に毛の生えた程度の連中では歯が立たないのは解っていた事だ。恐らくは無事に脱出している物だと考えていた。(まずは当日の監視カメラ映像を藤井に頼むか……) ポケットから携帯電話を取り出そうとした。カツンと何かに触れた感覚がある。 先島は上着のポケットにメモリスティックがある事に気が付いた。「なんだ?」 もちろん、そのメモリスティックは自分のものではない。会社の物でもない。「……」 先島は車に積んであるノートパソコンを起動した。メモリスティックの中身をチェックする為だ。 ノートパソコンに差し込んで中身を確認したが0バイトと表示押されている。それが増々不信感へと掻き立てた。「これは…… クーカが使っていた奴なのか?」 先日の事件があった時。 怪我で気を失う寸前に、くーかが何かを落としていたのを思い出した。殆ど無意識のうちに握り込んでいたのであろう。 きっと、先島を救助してくれた隊員は、私物と思ってポケットに入れてくれたらしい。 問題は中身が何なのかだ。「物理トラックを解析トレースしてみるか……」 ファイルの消去と言っても、単純な消去では物理的な領域を消されている事は少ない。ファイル消去後に何も操作されていなければ中身自体は残っている可能性が高いのだ。それを読み出せる状態にしてあげれば消去ファイルを復活させることは可能だ。 先島は自分のパソコンにインストールされている復元ツールを使って復活させる事にした。作業自体は難しくは無い。ツールが示すコマンドを認証していくだけだ。後はツールが推測して勝手にやってくれるのだ。 ほんの一時間程度で終了した。 もう一度メモリスティックの中身を表示させてみると、そこには改変前と改変後のファイルがあった。「やはり、何
都内の病院。 医者が言う事を聞かない人種はどこにでもいる。 先島もその一人だ。傍に居る医者は渋い顔をしていた。「どうしても。 仕事に戻らないといけないんですよ」 病院のベッドから起き上がった先島は、そんな言い訳にもならない事口にしていた。 ところが、先島の担当医は首を縦に振らない。一緒に居た看護師もあきれた顔をしている。「せめて縫い合わせた所が融着するまでは退院は許可できません」 そう言ってメガネの下から先島を睨んでいる。 致命傷では無かったが、弾は身体をすり抜けているのだ。少し動けば再び出血してしまうのが分かっている。そうなれば命に係わるので反対しているのだった。「いいえ。 自分が担当している事件は時間との勝負なので……」 そんな事は意にも介さずに自分の荷物(元々そんなに無かったが)をまとめ上げていた。 病院に見舞いに来ていた青山に、車を置いていってくれと頼んでおいたのだ。「駄目なものは駄目だと言っている」 医者は更に言い募ったが、先島は医者の忠告を無視しながら身支度をしていた。「歩ければそれでいいんで……退院しますね?」 先島は既に上着を羽織っていた。元より人の言う事を聞かない男だ。「万が一の事が有っても責任は持てんよ?」 医者は最後まで首を縦に振らなかった。「元々、自分の命は使い捨てですから……」 先島は自嘲気味に言いながら病室を後にした。 そんな先島の後姿を見ながら、医者は首を振りながらため息をついた。手元のボードに何かを書きつけて、次の患者の診察の為に歩み去った。 工場が無事に爆破されたのは知っている。青山がこっそりと教えてくれた。きっとクーカが始末してくれたのに違いない。(大人としては是非とも礼を言わないとな……) 工場はボイラー設備で不具合が発生して、『小規模な火災』が発生したと処
クーカは手近な樹に向かって手を伸ばした。 指先を何枚かの葉が滑っていく。 やがてガシッとした手ごたえがあった。枝を捕まえる事に成功したのだ。しかし、クーカの身体と落下速度を支える事が出来ない枝は直ぐに折れてしまった。 でも、クーカの身体を樹木の傍に引き寄せる手掛かりにはなった。クーカは何本かの枝の間を転げる様に落下していく。「うぐっ!」 一番下と思われる枝に腹をしたたかに打ち付けたクーカが呻き声を上げてしまった。彼女とて痛みは感じるのだ。「ぐはっ」 枝から地面に落ちたクーカは、肺の空気を全て吐き出してしまったかのような声が出てしまった。(は、早く…… 工場の敷地から脱出しないと拘束されてしまう……) 彼女は朦朧とした意識の中、脱出の事だけに専念した。クーカは痛みを無視する事が出来る様に訓練は受けている。痛みも彼女にとっては雑念の一種なのだ。すぐに立ち上がって周りを見渡し用水路を目指した。ヨハンセンが待機していると言っていたからだ。(ここからなら、拾い上げポイントまでたどり着ける……) クーカは工場のすぐそばを流れる用水路に飛び込んでいった。先島の事もチラリとよぎったが、まずは自分の安全が優先だと判断したのであった。 工場が吹き飛び爆炎を上げるのを鹿目は虚ろな目で見ていた。色々と画策したが何一つ手に入ることが出来なかったのだ。(どこで、間違ったのだ?) 挫折を知らない鹿目は戸惑っていた。彼の間違いはクーカを歯車の一つとして扱ってしまった事なのだろう。「ふっ、これでも私は日本を思っての行動だったのだがね……」 鹿目はぽつりと漏らした。傍には室長と藤井が控えている。藤井は鹿目との接触を全て室長に報告していたらしい。「人間のクローン技術は、今後の日本が強くなっていく為には必要な物なんだよ……」「……」 隣に
鹿目の工場。 目的の物を手に入れたクーカは台座の隠し扉から出て来た。もはや室内には物言わぬ骸しかいない。辺りを見回して少しだけため息を付いた。自分が入って来たエレベーターの出入り口に向かっていった。(応援が降りて来ているかも……) ひょっとしたらと身構えながら覗き込んでみる。しかし、誰もエレベーターシャフトには居なかった。急に応答が途絶したので対応が分からないのであろう。 クーカがシャフトを見上げると、自分が入って来た入り口は机のような物で塞がれてしまっている。エレベーターの箱は四階と五階の間で停止しているらしかった。(二階…… いいや、三階だったら待ち伏せされる可能性が薄いはず……) 自分が入って来た壁が塞がれているという事は、そこで待ち伏せされているに違いないと踏んでいた。自分でもそうするからだ。 安全に表に出る為には彼らの裏をかかないといけない。別段、殲滅しても構わないのだが、厄介な荷物を背負っているので避けたいところだ。(そこでジッとしててね……) 一階の塞がれた穴に向かって、そう心の中で呟くと一気に跳躍した。 クーカはエレベーターシャフトの中を、ジグザグに跳躍しながら登っていく。彼女の持っている身体能力の御陰だ。「んっ!」 三階のエレベーター口に辿り着いたクーカは、扉をこじ開けて中に入って行った。 すると『ズズンッ』とビルが振動するのが分かった。研究所の爆発が始まったみたいだ。小規模な爆発の連鎖で建物の構造を弱くしてから一気に破壊する。爆破解体と呼ばれる手法だ。(その後で焼夷爆弾で完全に燃やしてしまうと……) 外国のウィルス専門の研究機関では、燃焼温度が三千度にもなるテルミット反応爆薬が使われる。ここもそうしているに違いないと確信していた。証拠をもみ消すには完全に消滅させる必要があるのだろう。「……」 少し急ぐ必要性を感じていた
「?」 クーカが小首を傾げる。「特殊なキーが必要なのさ……」 大関の額から汗が垂れ始めた。「どうせ、貴方の網膜認証と指紋なんでしょ?」 クーカが目を指差しながら聞いた。ありふれた防犯装置だからだ。「ああ、生憎と怪我で動けなくなってしまったね……」 大関はそう言ってニヤリと笑った。その足元には血溜まりが出来始めている。銃撃戦での流れ弾に当たったのだ。「じゃあ、本人が生きている必要があるの?」 彼女は大関にグッと顔を近づけて言い放った。「現物を持っていけば良いだけなんじゃない?」 以前にも似たような装置を突破した事があるのだ。今回も同じ方法を取るつもりらしい。「え?」 大関は咄嗟にクーカが言った事が理解出来なかった。自分の命に価値があるとでも勘違いしていたのであろう。「まて、わしが死ぬと……」 大関がそこまで言いかけたがクーカは迷わず引き金を引いた。一発の鈍い音と引き換えに大関は首を垂れてしまった。「安全装置が働いて工場が自爆と言った所かしら……」 それは想定内だ。クーカは腰から小型のナイフを取り出した。これからの作業にククリナイフでは大きすぎるのだ。 仏像の台座に入り口があった。指紋と網膜の認証のようだ。クーカは大関から取り出した指と眼球を使って扉を開けた。 そこには階段があってもう一階分下がるようだ。降りていくと机と研究設備が並ぶ空間があった。しかし、そこは放棄されたかのように無人だった。研究者たちは予め逃がされていたのであろう。 無機質な空間が煌々と明かりで照らされている。 その中をクーカは銃を構えたままゆっくりと進んでいく。警備員がいる可能性はあるが配置されている可能性は少ないと考えている。「んがっ!」 不意に足元が崩れた感覚に襲われ膝を突いた。目の前の空間がいきなり曲がりくねった
地下一階。 全員が銃を構えたままエレベーターを見つめている。不意に開いた扉から何かが室内に放り込まれてきた。「手榴弾っ!」 誰かが叫んだが投げ込まれた物は、床に落ちる音と同時に炸裂した。強烈な音と閃光がホール内に充満した。「くそっ! スタングレネードかっ!」 警備隊長が自分の目を手で覆い隠しながら唸るように喋った。「撃てっ!」 だが、その掛け声よりも早く、ホール内に侵入を果たした者がいた。全員が目を離したので気が付くのが遅れたようだ。「ぐあっ!」 クーカは飛び込んで最初の男の首にナイフを突き立てた。そのままの体勢で隣に居た男の首を跳ね、返す刀で三人目の腹を切り裂いた。ナイフを使ったのは自分の存在を悟られるのを遅らせる為だ。(手前の右側に三人。 左側に二人。 左奥に二人。 右側奥に三人。 大関は一番奥の台座……) 彼女は右側の三人を始末している隙に、地下に居る人員の配置を見ていた。 男たちはいきなりの目くらましに気が動転しているのか銃を入り口に向けたままだ。次のターゲットはこの二人。その前に左奥の二人の内モニターを監視していた男にはナイフを投げ込んでやった。ナイフは男の首に刺さったが、傍に居たもう一人は咄嗟にしゃがみ込まれてしまった。牽制はとりあえずは成功だ。 クーカは腰から銃を取り出し、左手前の二人に銃弾を送り込んでいく。二人は横合いから来る銃弾に反応できずに、何が何だか分からない内に絶命してしまった。 ここまで掛かった時間は一分も無い。しかし、尚も台座に向かって突進していくクーカ。「くそっ! 小娘がっ!」 モニターの所に居た男が立ち上がって拳銃を撃って来た。しかし、クーカには当たらない。銃弾を右に左に避けながらクーカは男に迫っていく。「何故、当たらないんだっ!」 男は尚も引き金を引き続ける。しかし、銃弾はクーカの身体を捉える事無く床に後を残すだけだった。弾道が見えるクーカには無意味な行為だ。「悪鬼め……」 男の懐に飛び込んだクーカは右手のククリナイフで男の腕を薙ぎ払らった。それから、左手の銃で男の顎下から撃ち抜いた。 男は仁王立ちの状態からゆっくりと倒れていった。クーカはそのまま男の影から右奥の男たちを銃で撃ち倒した。 右奥に居た男たちはアサルトライフルを構えていたが、クーカが倒した男が邪魔で撃てなかったらしい。その
工場の入り口。 ここに来るまでに妨害行為は皆無だった。工場内に兵力を集中させたと見るべきだろう。 工場の入り口には監視カメラが有った。クーカはカメラに向かって携帯電話をかざして何やら操作した。(よし…… これで時間が稼げるっと……) 彼女は強力な赤外線を放射させて、監視カメラのCCD部品を飽和させたのだ。 こうすると自動回復するまで暫くは時間が稼げる。外国の強盗団が良く使う手口だ。 普段なら銃の形をしたアイテムを使っている。だが、今回は日本に持ち込む暇が無かった。(確か…… この辺よね……) 彼女はエレベーターホールに辿り着いた。そして、ホールの隣に有る掃除用具などがある備品室に入り込んだ。 クーカは保安室で見せて貰ったビルの設計図を覚えていた。 五階にあると言う秘密エレベーターの入り口に行く気は無かった。敵が待ち構えているのは分かり切っているからだ。(入るのに手間が掛かるのなら、壁に穴を開けてしまへば良いのよ……) 彼女はショートカットするつもりなのだ。別に友好的な訪問をしに来た訳では無い。真面目に敵の希望通りに動く必要も無いだろう。 背中に背負ったウサギのナップザックを降ろして中から四角い粘土のような物を取り出した。(加減が難しいのよね……) 壁に粘土のような物を張り付けていく。映画やドラマでお馴染みのC4爆薬だ。自在に形を変えられるので、こういう作業には向いている爆弾だ。(ん?) 爆薬を壁に張り付けていると、エレベーターの動作音が聞こえて来た。(誰か降りて来る……) いきなり監視カメラが使えなくなったので様子を見に来たのであろう。「……」 仕掛け終わったクーカは爆弾を爆発させた。爆弾の爆風は動作していたエレベーターの安全装置を作動させ停止させてしまった。(これで何人かは閉じ込める事が出来たっと……) 懐から降下用器具を取り出し、エレベーターのワイヤーに固定した。これを使って一気に降りるのだ。爆破音が響いた以上は、敵に何が起きたのかは伝わってしまったはずだ。 固定を確認するとクーカは中空に身を躍らせた。降下器具はゆっくりとだが彼女を静かに地下へと降ろしていく。(地下には何人いるのかしら……) 降下しながらクーカは考えた。もっとも敵の数は彼女にとっては問題では無い。掛かってしまう時間の方が問題だった。だから、